広峰神社は姫路市の北、広嶺山に有る。私の母方の祖母の出身地で、室町時代から神社に仕えて来た社家であったが、今は家は断絶してない。祖母から家系図を見せられて由来を聞き家を再興して欲しいと言われたが、子供だったから気にかけなかったが、60歳を過ぎてから気に掛り現地に出かけて調査した。此の神社には多くの人が関心を持ち、パソコンで検索すると色々の事柄が判ってくる。調査結果を順次掲載する。 | ||
播州平野の中心に姫路城が有り、東に市川、南に瀬戸内海。神社の表門(通称随神門)からの眺め程お城の有る町の豊かさを実感させるものはないかも知れない。増位山随願寺の奥の院から西へ、尾根伝いに近畿自然歩道を約1.5km歩くと、平安京と同じ風水都市として計画されたと言う姫路の町が視界いっぱいに広がる。陰陽道に云う四神相応の地相とされ、四神の一つ、玄武に見立てられる北の守りが標高311mの広嶺山。山上に有る広峰神社は京都の八坂神社の本社と言われ、吉備真備によって奈良時代に創建された。 | ||
国指定の文化財である本殿、拝殿を始め文化財が多く、境内のビャクシンやケヤキ等樹齢数百年と言う巨木が聖域を更に印象深いものにしている。姫路はもとより近畿、中国一円から熱心な信者を集めた農業の神様として有名で、四月の『御田植祭」が今に伝わっている。四月三日の拝殿前の仮田で早乙女姿の女性達が田植えの所作をする御田植行事から始まり、十八日には早稲、中稲、晩稲の三種の稲穂をそろえて作付け品種や豊凶を占う穂揃式、その後が王朝時代の武官の衣装を着けた三人の若者が随神門の下から御旅所迄と拝殿前で馬を走らせる勇壮な走馬式。これらが一連の行事となる全国的にも珍しいもの。宮司さんの話によると、農業が一家の生計を支えていた時代、各地から最良の稲が寄進され、稲揃式で豊作とされた稲穂は奪い合いになりその年の種籾になったとか。 | ||
もう少し此の神社について観てみましょう。広峰神社に伝わる古文書が神戸大学付属図書館に保管されている。『広峰神社文書」解題によると、広峰神社は、奈良時代末の天平六年(734)に、吉備真備によって白幣山に大社殿が創祀されたのがはじまりとされ、天禄三年(972)現在地に遷座しました。広峰神社は、素盞鳴尊を主神として祀り、これは古く神功皇后の祭祀に始ると言われている。貞観十一年(869)には分霊が山城国葛原に祀られました。これが「祇園本社播磨国広峰社」と言われるゆえんです。分霊の京都祇園八坂神社が発展したため、広峰神社はその末社の感が生じましたが、もとは本社の称を誇っていたのです。中世からその存在は播磨国の惣社とともに中央に知られて居り、檀那は播磨国だけでなく、摂津、但馬、丹波、備後、因幡、美作、丹後など周辺諸国までおよんでいました。広峰神社文書は、此の広峰神社に伝来した文書であり、現在広峰神社と同神社の社家肥塚氏および神戸大学付属図書館の三ヶ所に分散所蔵されています。そのうち神戸大学所蔵分は、昭和十三年九月に旧制姫路高等学校が購入したもので、戦後同校が新制神戸大学に移行するとともに、神戸大学付属図書館に移管されたものです。 | ||
別の文献によると播磨国の地誌「峯相記」には『熊野御嶽ニモオトラス、万民道ヲアラソイテ参詣ス』と記されている。何時の頃からか伊勢参詣の後は必ず広峰社にも参詣しなければ成らないと言う風習も生じていた。鎌倉時代から南北朝期にかけての広峰社は、鎌倉幕府の有力御家人であった広峰氏(別当)と京都の祇園社との間でその支配権を巡って対立していた。然しその後、戦国動乱期から近世初頭にかけて播磨一国大名の池田輝政による所領安堵を経て、慶安元年(1648)には将軍徳川家光から72石余りの朱印地を与えられ『公方様御祈祷執行仕候』(姫路市史十一巻下)、神社として存続する。こうした経過の中で広峰社全体の規模も『摂社末社古来七十五社有、今山内に十五社、その外麓白国村、平野村、大野村等に有之』とか『昔は社領大分御座候而社家七十五人御座候』と記されている様に七十五人の社家集落が存在していた状態から、安永四年(1775)の広峰山明細帳では摂社、末社十六社、社家三十四家、但し二十五家は相続しているが、九家は兼帯と言う状態に成っている。 | ||
山上の社家集落 このような変動の過程において広峰家は、往古より社務職を相伝し、『広嶺山東西坂本鳥居縄手之内』を領地として社家七十五人の惣司であったがその地位を低下させた。十七世紀中期には広峰家の社務職としての社家支配力も無力化し、社家連合による広峰神社の運営体制へと変った。承応四年(1655)に制定された社家三十五人の連判による起請文形式の「定」によると、社家中として決断したものに異議を唱えるものは公儀に申し上げた上で下山を申し付けるとしている。こうして広嶺山の山上には広峰神社を取り巻く社家集落が形成されるのであるが、これ以上に発展した形跡はない。社家達は「播州隣国之内御祈祷之御札配渡仕」とあるように播磨国やその周辺諸国の主として村々に存在する檀那に対して御祈祷札を配布しながら、神事社役を勤めていた。檀那とは社家に対する祈祷の依頼者であり、広峰神社の参詣者でもあった。時には社家の間で檀那の売買があった。たとえば元禄六年(1693)八月、社家の神辺万右衛門は因幡国智頭郡内に有る一〇か村の檀那村を、同じく社家の肥塚修理へ丁銀九十目にて「永代売渡」している。つまり自分が開拓したテリトリーを売り渡したのである。 | ||
社家と御師 明治十年に国が調べた広嶺山居住者の名簿 | ||
広峯家の神霊舎 神社の直ぐ下に広峯家の神霊舎が有る。家は跡形も無くかたずけられている。広峯家が広嶺山にかって在住していた事を表しているのである。神霊舎すなわち神棚は各家々に有るが、家が没落して朽ちてしまうと跡には何も残らない。此の様に石で作っておけば永久に残る。 その舎詞に歴代当主の名前が刻まれている。信憑性は兎も角おそらく同家に伝わる家系図を写したものであろう。 | ||
現存する魚住家 写真は現存する魚住家である。今は人は住んでいない。当主魚住寿太郎氏(78歳)は山を下りて麓の町に暮らしている。魚住家に残る古文書を調べると此の山の昔の暮らしぶりが判って来る。それと私の母方の祖母が結婚した時に持参した粟野家の系図を照合すると意外な事が判って来た。粟野家は断絶して家は跡形もないが、粟野家は魚住家であり、魚住家は家は残っているが人は粟野家であると言う関係に有る事が判った。 | ||
粟野家の家系図 此処で粟野家の家系図を見てみよう。清和天皇から始る源氏の家系で始る。でもこれは全く信用ならない。江戸期に作られた箔ずけの家系図である。此の山に在住した社家達は大部分村上源氏と称している。魚住家も古文書によると村上源氏と称している。現在此の山に一人お住まいの肥塚なおえさんは同家の家系図を前にして、こんな物みんな噓に決っているとにべもない。 | ||
c此の系図には大江山の酒呑童子を退治した源 頼光の名前も見える。 | ||
更に見ていくと村上姓に成り、村上姓の最後は村上彦四郎義光ー義隆で終わっている。村上彦四郎義光ー義隆親子は南北朝時代後醍醐天皇に味方して吉野山に立て籠り、大塔宮護良親王と共に足利尊氏と戦かい、最後は宮の身代わりに成って割腹し臓物を敵に投げつけて死んだ事で有名である。此の事は昭和20年の中学一年の漢文の教科書に記載されていたので興味が有った。(日本外史)義隆は宮を守って落ち延びる途中奮戦し割腹死している。此の戦いは西暦1333年の事である。 | ||
粟野家の始祖 村上義隆に続いて近江太郎、粟津左衛門尉、粟野六郎、高長と記されている。魚住家に残された文書によると、天安二年ヨ里七代 村上蔵人顯清崇徳院判官代拾一代 年暦不分明 凢康應明徳位ト相見江 粟野六郎高長 と記載されている。 | ||
| ||
魚住家に残された文書 粟野家の家系図、粟野長好が姫路の役所に出した家系図の写し控えが魚住家に残されていた。系図には近江太郎,粟津左衛門尉と書かれている。当時近江は佐々木氏が支配していた。粟津は木曾義仲が義経に追い詰められて戦死した土地で、その当時は沼地であったらしい。鎌倉室町時代になり佐々木氏が地頭となり、高長は近江太郎と言われる程の剛の者に育っていたのだろう。此の時代南北時代と言われ動乱が相次いだ。南北朝が統一されてからも動乱が相次ぎ、高長も参戦した事であろう。何人かの家来を連れて広峰神社に参拝したおり、時の別当広峰氏から神社の荘園が近郷の僧兵や野武士に荒らされて困っているので助けてくれまいか。と頼まれて此の山に住み着いたのではないだろうか。此の山の一等地を与えられて屋敷を築き土塀を巡らして、戦いに備えている。後に十七代粟野長好が宅相図を書いて残している。 | ||
粟野家の宅相図 部屋数が大小15部屋あり、総畳数は101枚になる。戦乱が治まり、江戸期に入って参詣者が増えると今で云う民宿として生計を測ったのであろう。 | ||
偖、魚住家に残された粟野家の家系図の写しを見てみよう。 | ||
志方城主櫛橋左京亮 『志方町誌』に記載された『櫛橋系図』がある。それによると、櫛橋氏は藤原鎌足に始り、藤原北家の摂関家→世尊家→櫛橋氏とつながっている。 | ||
櫛橋氏の出自 | ||
魚住氏 | ||
粟野長行 粟野長行は1550年頃生まれて1622年に亡くなった。結婚したのは志方城の櫛橋伊定の娘で黒田官兵衛と結婚したお悠の妹である。おそらく魚住吉新の仲介であろう。お花と名ずけよう。お花15歳、長行20歳位の桜の奇麗な春ではなかったろうか。朝早く志方城を数十人の家来に守られて昼過ぎに広峰神社に着いた。神社で結婚式を揚げ披露宴は粟野屋敷で三日三晩続いたであろう。時あたかも戦国動乱の真っ最中。其れから7~8年後三木城の別所長治に味方した御着城の小寺藤兵衛と志方城の櫛橋伊定は、秀吉の群勢に囲まれたが、官兵衛の助けにより身分を変えて広峰山に匿われたのではないだろうか。天正八年一月十七日(1580)三木城は別所長治一族の命と引き換えに城兵は助けられた。 | ||
魚住家に残されている薙刀と鎗 魚住家には写真に見られる様な薙刀と鎗が壁にかけられている。おそらく魚住吉新あるいは粟野家のご先祖が使用していた物であろう。 | ||